犬を飼うことで出逢う、ある「層」の人たち
私たちは得てして自己中心的になりがちだが、親や子供を含め、いろいろな人や、ペットなどと共に生きることで、彼らの視点から世の中を見ることができるようになる。また、子供や犬と暮らすことで、それまで知らなかった様々な「層」の人たちと出会うことになる。子供や犬がどのように見られているのか、否応なく突き付けられる。今回は「あき」と暮らすことで見えてきた、それらの事柄について書いてみたい。
まず一つ目は、『日本人はやたら純血種が好き』ということ。どこへ行っても「この犬は何犬だね?」と必ず尋ねられる。ブランド指向なのか、枠にハメたいのか。とにかくラベルから入ろうとする人がいかに多いことか。
二つ目は『大きい犬がとにかく怖い』ということ。”大きい” というのは「その人の中の犬」とくらべて大きいということ。そうでない ”小さい” 犬はかわいいが、それを外れると途端に怖くなる。”犬” は好きだけど、”大きい犬” は怖いから嫌い。ご都合主義は当たり前。吠えられたりしたら逆上しちゃう。ここまでくると、もう精神を病んでいらっしゃる。怖いから吠える。犬と同じかそれ以下だ。
三つめは、『犬を”アイコン”として飼っている人と、”パートナー”として飼っている人が、明確に分かれる』ということ。面白いのは、その人の犬との主従関係です。前者は犬が「主」で飼い主が「従」であることが多く、後者は正しく飼い「主」であることが多い。前者の場合、一見正しい主従関係が築かれているように見えることもあるが、それは「犬のおかげ」であることがほとんどだ。その犬がたまたまとても従順な性格だったために、飼い主は助かっているだけ。犬が主導側であることに変わりはない。さらに面白いのは、そんな飼い主は、自分の犬の💩をちゃんと持ち帰らないことが多いのである。
四つ目は、『散歩禁止の公園が多い』こと。結局汚す人が多いからなんだろう。💩を持ち帰らない。確かにそれは酷いことだけど、だからと言って「禁止」と強行しちゃうのも、同レベルの酷さだと思う。2項対立することしかできないというのは、情けないというか、嘆かわしいというか。思考の方向性が間違っている。そもそも公共の公園に対して、だれが「禁止」することを許可したのか?まったくの疑問である。
最後は『犬を愛している人は、結構たくさんいる』ということ。最後くらい、いい話をしたい。地域差が大きいけれど、犬をよく知っていて、上手に接することができる人も、結構たくさんいらっしゃる。犬についてコツコツ勉強した私からすると、驚く限りだ。彼らがなぜそうなったのか興味津々だけど、それは訊かない。目の前の問題に対して、自分自身を「学び」によって変化させられる人たちなんだと思う。この社会をより良い方向へ導ける人たちだ。とても心強い仲間だ。
これらは皆、我が家に「あき」が居ることでもたらされた知見である。犬を飼っている人なら、それぞれに似たような経験・思いなどがあることでしょう。良いも悪いも全部マルっと「犬」のおかげ。私たちを、未だ見ぬ知らない場所へ連れて行ってくれるパートナーに、心から「ありがとう」と言いたい。