「あき」の兄弟犬の1匹は、子犬のころに決まった里親のところで1年間ほどを過ごし、飼主側の都合によって、元の保護団体に戻ることになりました。もともと警戒心の高い保護犬です。たとえ子犬でも、育て方を間違えれば、吠えもすれば唸りもする。場合によっては咬むかもしれない。犬をコントロールすることを諦めてしまったこの飼主は、団体側がいろいろな手段を提供してもなお、手放す以外の方法を選ぶことはありませんでした。自然、団体のブログには、この飼主との顛末が仔細に描写されるとともに、飼主を非難するたくさんの文字が並ぶことになりました。
しかし私はこの一件を次のように見るべきだと思っています。
まず大切なことは、里親になった方は、残念ながら、もともと犬を飼える(能力のある)人ではなかった、という事実です。そして、そのような人を里親として選んでしまった(人を見誤った)団体にこそ、反省すべき点がある。だから団体がその飼主を非難することはできない。それはブーメラン。もちろん、それを見抜くことは事実上不可能だから、その点について負うべき責任は、団体にはまったくない。団体は、相手を非難などせず、何のためらいもなく、即座に一切を引き受ければいい。ここに言葉は要らない。言っても無駄だし、むしろ、その人の考えた最終的な結論を是非とも尊重し、受け入れてあげたい。そして、さらなる人選能力の研鑽に励み続けてほしいと思います。
そしてそのような団体のありようこそが理想的ではないか、と思うのです。運悪く能力のない人に当たってしまった犬、運悪く自身の能力に合わない犬に当たってしまった人、その双方を助けられるのが、保護団体の本来の在り方だと思うのです。そのために、まず「人間」を中心に置き「私たちは人間を救う組織なのだ」と考えるべきです。 遠方から仕入れた子犬を「客寄せパンダ」にして「販売」することは、決して保護団体のすべきことではない。まして、心同じくして里親になり、その責任をまっとうすべく、真摯に努力を続ける人たちに、上から目線でものを言うなど論外。人間を救える組織は、必ず、動物たちも救うことができるはずです。動物を救うその手で、人をけなしてはいけない。私たちは皆、同志なのだから。
話をまとめます。 保護団体は「まずは、人間のためにあるべきだ」ということです。救うべきは、まずは人間なのです。変わらなければならないのは、学ばなければならないのは、犬ではなく人間の方なのです。 動物が可愛いから動物を保護するという、直接的な気持ちはよく分かります。しかしその考えは、逆に、可愛くなければ保護しない、と転嫁しやすい。また、動物のために何ができるかと考えても「ほんとう」に動物のためになっているかどうかの評価は、とても難しい。当の動物たちにとっては ”ありがた迷惑” だったことなどは、いままでもたくさんあったでしょうし、みなさんもよく経験されていることだと思います。つまり、そういうのは個人レベルでやればいいのです。 不確定要素の多い問題に組織が関わることは難しいし、いろいろな意味で危険なのです。組織がやらなければならないことは『人間を救うことによって溢れてしまう動物たちのセーフティ・ネットとなる』ことなのです。
社会ではしばしば動物保護に関する問題が取り沙汰されますが、その一番根っこにある原因は、保護する対象が動物であること、にあるんです。必ず大切なのは「人なのか」「動物なのか」で対立してしまう。それは、人間にとって十分に理解できていない動物を中心に置いてしまうから。
発想を変えないといけない。人間のための動物保護なのだ。短絡的に動物を「保護」してはいけない。常に誰のための保護なのかを考えなければならない。「人間社会」の中の「動物」である。そして「人間」もまた「動物」である。「動物 vs 人間」 という構図でとらえている限り、決して問題は解決しない。私たちは早くそのことに気付かなければならない。
誰もいない山にいる野犬や、街で伸び伸び生きている野良猫たちをわざわざ捕まえてくるのは「保護」ではなく「捕獲」もしくは「狩猟」というべきものでしょう。犬や猫は人間と共に生きることを選んだ種なのですから、人間も彼らに「そこに居てもいい」と伝えてあげたい。ルールを守れない子が近くにいるのなら、その「人」の方に、正しい対処方法を指導すればいい。昨今の「人」は昔より弱くなっているから、場合によって「捕獲」が必要になることもあるでしょうが、基本は「共生」でありたい。
そもそも「保護」が必要な動物なんてほとんどいません。みんなそれぞれに勝手に、活き活き、のびのびと生きているんです。だいたいほっとけばちゃんと生きていける。
はじめからそういうふうにできている。