飼主の習熟度が高まるにつれて、犬をコントロールするための道具類へのこだわりが出てくるものです。飼主だけでなく犬の方もその道具について学んでくれる必要があるので、道具というものは、犬と飼主が両輪となって育てていくものなんですね。
私の場合は「スリップ・リード」がその1つです。周囲や犬の動きに細心の注意を払い、犬が苦しくならないように繊細かつ敏捷に、そして「事前に」動く。犬の方も苦しくならないように、飼主の微細なリードの動きに鋭く反応する。「あき」の場合は、引っ張り癖がついてしまう前に導入したのがよかったと思います。練習を重ねることで、散歩中でも、常に私を意識し、私が止まれば「あき」も止まる。私が歩き出せば「あき」も歩き出す。そういった、いわゆる「散歩の基本」が自然と身についていきました。
さて、こだわりが出てくる道具は、おそらく人それぞれです。特に、技術の高いトレーナであれば、ケース・バイ・ケースで適切な道具を考案して使用することでしょう。素晴らしいことだと思います。私は、それぞれの人がこだわりを持って道具を使用することを、お互いに尊重できれば良い、と思っています。それぞれの道具に、お互いがまだ気が付いていない優れた点を発見したり、改良の余地に気が付くこともあるでしょう。そんな風に、自分たちに合った道具を、自分たち流に使いこなすのと同時に、より優れた新しい道具へも挑戦し、互いに補完し合うことが、上達への近道だと思います。
これまた愚痴になりますが、私と「あき」がお世話になった保護団体に呼び出されたときのお話です。この団体の代表者は、『カラー、ハーネス、ダブルリード、場合によってはトリプルリードを、たすき掛けで』というのが「決まり」、「最上だ」、「それ以外にはない」ということでした。それを聞いた私は、当然ながら疑問点が次々と湧いてきます。あなた自身がそれを使うことは尊重するが、誰にとってもその道具が最上なんて、なんでそんなに決めつけられるのだろう。道具は、その犬と飼主の間で随時適切なものを選ぶべき。その選択技術を飼主は身につけなければならないのに、それを学ぶ機会を削ぐのはなぜだろう。本質は、道具にあるのではなく、道具を使いこなす技術、つまり飼主の方にあるはずなのに、なぜ技術を教えずにおいて先にモノを決めてしまうのか。そもそも飼主が自由に道具を選ぶ権利はないのか。なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた。そんな感じでした。
一方私は正論をぶつけてみます。スリップ・リード、ロングリード、ショートリード、eカラー、ヘッドカラー、素材、太さ、重さなんかをいろいろ試して、そのトレーニングや場所、何より当の犬と飼主にあっているものを適宜使い分けるべきだ、と応じましたが、まったく受け入れてもらえませんでした。「スリップ・リード?あぁダメダメ!」って感じです。たすき掛けより、腰に巻いた方が安定するでしょう、という別案には、「あぁ、腰はダメダメ、引きづられちゃう」。私はとりあえずニュートン力学を学んだ身なのですが、力学的説明をしようとしてもまったく聞いてもらえませんでした。この団体の代表者は、犬と飼主とその関係性についてはまったく関心がない。残念ながらそう思ってしまいました。
閑話休題。例えばカラー。世には数多くの種類のカラーがありますが、結局みんな、シンプルなタイプのものに落ち着きませんか?例えばリード。これも結局1~2メートルくらいの長さで軽くて、よく売られているシンプルなものに落ち着きませんか?そうなんです。道具は、洗練されると、必ずシンプルになる方向へ進化するものなんです。「料理は引き算」と言われますが、それと同じです。農機具もそう。結局、鎌と鍬になる。筆記用具もそうですよね。このような例は枚挙にいとまがない。
個々の道具を適切に使いさえすれば、不用意にいくつも取り付ける必要はない。1つでダメなら2つ、3つなんてあり得ない。そういう発想になってしまうのは、犬との関係が不良なうえに、扱う技術が乏しいからに他ならない。「自分には犬を扱う技術がありません」と、宣言して歩くつもりならよいが、馬鹿みたいにガチャガチャと幾つも付けられている当の犬たちは、いったいどのように感じているだろうか。
優れた道具は必ず「シンプルで美しい」。そしてそれを使いこなす高い技術と犬との調和が「道具」を育てるのです。
私たちはもっと犬をよく観て、よく知らなければいけない。犬を知った後ではじめて適切に選べるのが道具、なのであって、道具を選んだあとで犬を知るのではない、ということにも気付かねばならないだろう。