飼い犬としての振る舞いが不適切になるときとは、犬の本能の部分が出てきてしまったとき。これは人間でも同じことが言える。本当はこう思っているけれど、実際にはしない。そんな事いくらでもある。それを実際にしてしまうのが本能の表出。みんながそうなってしまうと社会は成り立たない。犬は社会性のある動物だから、群れのルールに従って本能を抑制できる(はず)。だから犬は、数十万年前に人と共に生きることを選び、現在に至る。
さて、私たち人間がそのように社会生活を営めるのは、もともと備わっている優れた知性のため。知性は「裏」を作る。腹の中で酷いことを考えていても、表面的には理性的にふるまう。しかし犬の知性はせいぜい人間の2~4歳程度。これくらいの人間の子供と同じで、泣きたいときに泣き、怒ったら物を壊すし、嫌いなものは食べない。お母さんが見当たらなければ大声で叫ぶ。公園で目を離すとたちまちどこかへ行ってしまう。まさに犬も同じだ。そんな人間が成長し大人になってさえも、相変わらず本能の赴くままに行動し、理性を失うこともないわけではないだろう。だから「犬も許してやれ」と言いたい気持ちはわかる。しかしやはり、本能に抗って理性的に振る舞うことが、守るべき基本的ルール。だって「群れ」の一員なのだから。
「本能に抗って理性的に振る舞う」ということは「必要に応じて自分を変える」という意味。やりたくない宿題を頑張ってやる、怖いけどじっと黙って耐える、などは、その簡単な例。自分を律し続けて生きることはとても大変。ものすごくエネルギーが要るしストレスもたまる。そしてそれを真に乗り越えることを私は ”スーパーサイヤ人になる” と表現する。そのような境地に至る経験をもつ方もいらっしゃるのではなかろうか。自分自身の居るステージが1つ上がり、力を持つ新しい言葉を得、周りが広くゆっくりに見える。
閑話休題。犬を変えられるのは、換言すれば、犬を正しくしつけられるのは、そのような「自分自身を変える」経験を持つ者だけなのかもしれない。自分自身をしつけられない人は、他者である犬を決してしつけることはできない。もちろん、人であっても。問題にならないケースも多くあるだろうが、それは単にその子の個性によるもの。別に厳しいことを言っているわけではない。”親になる”ということが、”スーパーサイヤ人になる” ということであればよいのだ。
さて、私たちは死ぬまでに、何度それを経験できるのか。私は楽しみで仕方がない。