大切な「問い」。この問いに即答できる飼主でありたい。
あきを連れていると、よく知らないおじさん・おばんさんから「おとなしいねぇ」と感心される。本当に思っていることと表現されている言葉にギャップがあるのかもしれないが、これはたぶん少なくとも褒められているようだ。けれど、いつも違和感を感じる。おとなしければいいのか?
特に和犬種に見られる傾向だが、人にも犬にもあまり関心を示さない子がいる。この子たちは本当におとなしく見える。もちろんこのタイプは強い自我とエネルギーを内在していて、注意深く接しないと何が起こるか分らない、ということも経験として知っている。
逆に、正直落ち着きがなく始終ワチャワチャだが、人にも犬にも優しく接することができる子もまた、多くいるだろう。
もちろん、私の性格上、ワチャワチャ犬より、多少落ち着きのある犬の方が好みなのだが、いずれにせよそれはあくまでも、結果的にその瞬間にそのようにふるまえていただけのこと。話しはもう少し深いところに面白みがありそうだ。
よく、おやつを使ってしつけを行うトレーナを見る。叱らないのがモットーのようで、飼主のところに居ることが、ほかの何よりも魅力的(いいことがある)であれ、ということが本質にある。そこに素朴な疑問がある。そのように育てられた子は、おやつよりも飼主よりも、さらに魅力的な対象が現れたらどうなるのだろうか。そんなものがないようにすればいい、と言われれば反論のしようがないが、その場合、「飼主以外で最大の魅力」を持つ対象として、何を想定すればよいのだろうか。それが明確にあるのならば、それを目標にすればいいから実践は難しくない。しかし、そもそも、魅力あるものは青天井なのではなかろうか、と思う。つまりこの方法は、ある範囲において現実的な対処療法であることは間違いないが、論理的には「不完全」である。
いや、私はこの場所で、その方法論を問うつもりは毛頭ない。私が言いたいのは、「魅力」があるかどうかが唯一の行動原理であるような犬を、私は求めない、ということなのである。
犬が飼主のそばになぜとどまっているのか。その場が魅力的だからというのが1つ。もう一つは、その場にいなければならないから、というもの。前者は先に述べた単純な行動原理の表出であるが、後者はそうではない。そこにあるのは「自制」の心である。ここに居なければいけない、ということが分かっていて、他に行きたいところがあっても、居なければいけないから、居る、のだ。欲求に対して、それを超える自制心により自己を制御しているのだ。私が求める犬は「行動を自制できる犬」である。
心を育てる必要がある。大きな自信に裏付けられていなければならないだろう。最も難しいことに挑戦している気もする。しかし、さすがに、飼主が「自信がない」とは言えない。Better the Human, Better the Dog!